能動的な一生懸命と心の奥が熱くなって奮えるもの

こんばんは。Non太です。

今日は完全に感情論となりますが、最近、大人になるってこんなんだったのかなと思うようになってます。

いや、以前からそう思う事は多かったのに、最近はそんな風に感じたり思ったりすることが多くなったと。

社会人になるにつれて、心が熱くなって奮えるものが少なくなったというのは誰もが痛感していることだと思いますが、完全に僕もその一人。

でも、これから僕は心が奮える毎日を過ごしていけるんじゃないかと思うと、それだけで心が奮えそうですが、そんなお話しです。

学生の時は心奮えることが多かった

学校の図書館

小学校も中学校も、高校でさえも僕はありがたいことに心奮える出来事を多く経験出来たと思っています。

それはスポーツをしていたから。

少年野球で選抜チームに選ばれ、都市別対抗県大会で優勝できたこと。

6年生の時にドッジボールで全国大会まで進んだこと。

中学から高校まで陸上競技をやっており、高校生活最後の県大会で校内初の快挙で100m走で決勝進出できたり、リレーで3位に入ったこと。

無数にあるわけではないですが、思い返すと色々あるものです。

もちろん練習はたくさんしました。

そしてその瞬間瞬間は『しんどい』、『いやだー』と思うことの方が大半でしたが、優勝出来たり選抜に選ばれたりと結果を残すことができたことも要因ですが、終わった時にはやりきった感や達成感で心が熱くなって奮える気持ちでいっぱいでした。

心奮えることって終わってからしか感じられない気がします。

そして心震えることを”表側”とするならば、そこには必ず表面だけでは見ることの出来ない”裏側”が存在します。

小学生の頃、僕の時代はスーパーファミコンが全盛期の時でした。それでもゲームには目もくれず、毎日毎日休み返上で練習しまくったという裏側が存在します。

人は何かの目標に向けて一生懸命になり、その道半ばの時は辛かったり時には涙してしまうことがあったとしても、毎日ブレずにひたむきに頑張った結果として、やっと心奮えるものに出会えるんだと思います。

そして頑張っているその瞬間に、心が奮える経験をしたいから頑張ろう、なんてものは一切ないはずなんです。

心が奮える経験は、そういう上でしか生まれないものだと思っています。

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“一生懸命”の意味が変わっていることに気付いた

社会人になって何年もすると、人生を豊かにするための仕事だったはずが、人生を生きるための仕事に変わっていく現実にすごい嫌気がさしていたはずなのに、いつの間にか仕方ない、仕事ってそういうものという言葉で片付けるようになりました。

それでも、自分が担当する仕事は一生懸命こなしてましたし、間に合わないことがありそうなら自分を犠牲にして徹夜をしたり、同僚やスタッフとも一緒になって乗り越えてきました。

それなのに、その担当した1つの仕事が終わった時、達成感に包まれながら心が奮えるはずなのにそんなことはなく、むしろやっと終わったという安堵感のみの日々でした。

一生懸命やってることに変わりはないはずなのに、昔のように心が奮えることってなかったんです。

同じ”やらないといけない”という意味の中でも、”やりたいとは思わないけど給料をもらうためにはやらなければいけないからやる”っていうことと、”ある目標を達成するためには、これをやらないと達成に近づけないからやる”というのは大きく違います。

そういう意味で能動的な一生懸命か、受動的な一生懸命かで心の奮え方が大きく変わるんだと思いました。

能動的な一生懸命からは心が奮える出来事が生まれるという話し

ある一人の話しです。

彼は小学校の時から足が速くクラスの中でも1番でした。周りのみんなも『あなたは足が速いね!』と言って褒めてくれました。

しかし中学に上がると、自分とは違う小学校に通っていた人たちも一緒の中学校に通うようになりました。そこで彼は世間が広いということに気付きます。

そして”自分よりもっと足の速い人がいるなら、練習して抜いてやろう”と考えました。

毎日練習に明け暮れ、来る日も来る日も練習をしていました。

すると、部活動よりも勉強第一のY君が練習に来ました。Y君は1週間に一回しか練習しません。それでも、彼よりも足は速かったのです。

彼は悔しい思いを抱きつつも、Y君の足元には及ばないまま、中学最後の大会もY君には負けてしまい、中学校生活を終えました。

Y君は勉強に忙しかったため中学で走ることはやめ、医者を目指しましたが、悔しかった彼は高校に入っても走る練習を続けました。

あの中学時代にY君に負けた悔しさをバネに、毎日毎日一生懸命練習しました。

心が折れそうになっても、なかなかタイムが縮まらない中でも負けずに一生懸命に練習しました。

すると高校2年生の夏、急に神様が微笑みかけました。

彼は急速にタイムを縮めはじめ、どんどんと速くなっていったのです。

彼はさらに一生懸命に練習しました。努力が実を結ぶという事を身に染みて感じた彼は、さらに努力を重ね自信をつけタイムを縮めていきました。

そして高校3年生に上がる頃には、県でも決勝の常連となる程に成長しました。

最後の引退試合の数ヶ月前。彼は長年の練習から足を故障してしまいました。

最後の試合では故障した足が完治していなかったので準決勝敗退となりましたが、心はすがすがしい気持ちでいっぱいとなっていました。

自分がやってきたことを思い返すと、心が奮え熱いものでいっぱいになりました。

そして彼は、思い残すことなく高校生活を終えたのでした。

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話しがだいぶ飛んでしまいましたが、彼は速く走るという目的のために一生懸命に練習したということです。

そしてそれは、誰かに言われたからやってた一生懸命じゃなく、自分との戦いの中で求めた一生懸命です。

それを振り返った時、心は奮え熱いものがこみ上げてくるんだと思います。

やっぱり能動的な一生懸命の先にあるものは、心が奮えるものなんだと思います。

能動的な一生懸命は周りの人を惹きつける

トンネルに惹きつけられる

基本的に人は、頑張っている人を見るのが好きなものだと思います。

ただサラリーマン社会になると、どれだけ周りの評価は上がらないままに自分の評価を上げるかが蔓延しているため、人の頑張りを素直に応援出来なかったり喜べなかったりすると思います。

逆に自分が全く関与しないところでの人の頑張りの場合やその頑張りが自分にとってメリットのある時、人はそれを素直に応援し、喜べるものだとも思います。

営業成績があまり上がっていない人がいたとして、同僚が成績を上げるように頑張っていた場合、あまり成績が上がるなーと心の中で思ってしまう人は多いと思います。これがもしどんどんと結果が出ても、自分の結果が著しくなければ素直には喜びにくいですよね。(全てがそうとはかぎりませんが)

逆に、自分がベテランになったとして、後輩を従えたチームのリーダーになったとします。その後輩の成績が自分の成績に繋がっていく。そういう場面では、後輩が営業で結果が出そうな場合は応援し、結果が出た事に対しても素直に喜べると思います。

これがサラリーマン社会ですよね…。

また話が脱線しそうなので戻しますが、こういったサラリーマン社会を抜け出したとして、自分が心奮えるものを愚直にこなし一生懸命頑張っていれば、人は応援したくなるものだと思います。

基本的に、人は頑張っている人を応援するのが好きな生き物だと思っているからです。

そう思われたいからというのではなく、結果的にそう思ってもらえたということが大切ですが、自分から進んで目的を持って一生懸命に頑張っている人と僕も接していきたいと思っています。

長くなったのでまとめ

これは僕の雑記です。まさしく思ったままを書いたものです。でもかなり大切なことを書いているような気がします。

冒頭に、心奮える毎日を過ごせるんじゃないかと思うと書きました。

それはなぜかと言うと、まず僕はサラリーマンを卒業することを決めました。(決してサラリーマンが悪いと言っているわけではありません!!)

そして、自分が良いと思うことを発信すること、自分が成長出来る、この人から学びたい、そういった人とたくさん出会ってもっともっと自分自身が人として深みのある人間になれるように歩んでいくことを決めたからです。

そりゃ心奮える毎日の連続に違いないと思うわけです。苦しいことを含めて。

いずれこのブログが多くの記事に埋もれてしまっても、いつかこれを懐かしめる日々になるようにと戒めの想いも込めて書いてみました。

心奮える熱い気持ち、いつまでも持っていたいと思います。

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